2010年8月31日火曜日
ミラン・クンデラ著、千野栄一訳『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫, 1998年)
以上100文字。
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本著は希代のプレイボーイであるチェコの優秀な外科医と、彼の妻(ただし、二番目)、愛人(及びその愛人)の三者を中心にした人間模様を描く恋愛小説であり、プラハの春前後のチェコを描く時代小説でもあり、二つのメタファを描くためのメタファが凝縮されているメタファ小説とも言える。
メタファの第一は、主人公を含めた登場人物が全て何かしかの主題を背負わされ、動かされている。その経緯と、契機と、経過から登場人物の愛もしくは人生と、あるいはその失敗を読者は読みとるだろう。
メタファの第二は、著者が「俗悪なるもの」と呼び表す概念についてである。この「俗悪なるもの」について著者は批判しているが、それは人間の条件でもあると認めている。
人間とは、なんと、矛盾しつつ、多角的なものなのだろう。
以上、333文字
2010年8月30日月曜日
ROCKMAN SPECIAL CD Vol.1 (1992年)
その時は某夜気は小学校低学年で、周りの連中がはやりの歌を追いかける中で、某夜気はこればかりを聞いていた。今思うと合唱が徹底的に嫌いになる時期と重なり、クラシック音楽を聞き出すちょっと前に当たっていたのではないか。
今はもう現物は残っていない。非売品だからプレミアがついて高値かもしれない。しかし、他人のものだったものを手に入れてまでコレクションに入れようとも思わない。あれはあの時、聞いていたと言う思い出としてあるものであり、それは某夜気が聞いていた傷だらけのあの一枚でなければならないのだと思っている。
2010年8月29日日曜日
「サラサーテの盤」の初日を見てきた
以下、感想。
あれは役者さんの地なのであろうか、それとも脚本・演出によるものなのであろうか、あるいは演劇における語り口そのものなのであるのか。そこのところがわかるほど、筆者は演劇と言うのを見ていない。小学校の時に見たお芝居と、中学の文化祭での選択国語の連中の寸劇と、高校での演劇部連中の発表と、一人芝居『天の魚』と…それくらいであろうか。世の中には大雑把に分けて素人向けのものと、玄人向けのものと、白黒問わないものの三種類の作品があるが、筆者の素人目には『サラサーテの盤』は、なんだかわけのわからないわかりやすさがあったように思う。誰か玄人目にはどう映るかは知らない。
冒頭と終盤で、屋根の上に小石が落ちてカラカラカラカラカラカラ…と転がるかのような音がする。しかし、地面に落ちたらしい音はしない。あの石はどこから落ちて、どこへ行くのだろう。そう主人公のウチダはつぶやく。ストーリーはこのウチダの周りを夜な夜な入れ替わり立ち替わる人物との噛み合っているともいえない会話で進行する。それらの人物はいずれもウチダとは何かしら関わりのある人物たちである。おそらく全員が故人であり、彼ら彼女らもまたどこから来て、どこへ行ったのかわからない。
1時間50分と言う上演時間の割には、それだけの長さを感じさせない。リズミカルなテンポでどんどんどんどん進む会話のせいなのかもしれない。心地よくはあるが、眠気は誘わず。現れては、消えていく、一つ一つの小さな場面の切り替えのためなのか、もやもやとして、つかみようのない感覚にされてしまい、観終わってすぐには感想はまとまらず、時間の割には短かった、劇中で出てくるビールがおいしそう、といったものしかひねり出せなかった。そうして、後からもわもわと現れては消えていく感想の断章が出てくるのである。これはまんまと作り手にやられてしまったのかもしれない。
2010年4月19日月曜日
甘酒
お粥を炊いて、ふやかしたこうじを入れて、炊飯機の蓋を少し開けて保温していくだけ。
ズボラな某夜気にはピッタリ。
時間かかるけど、酒カスよりも火のこと気にしなくて済む分だけ簡単かも。
ただ、明らかに作り過ぎで、一人で消費するのは案外大変かも。
朝飯、これかな?
4月19日追記
およそ、甘酒の作り方としては、二通りある。もっとあるかもしれないけど、某夜気は二つしか知らない。
一つは、酒粕を溶いて砂糖やらしょうがをぶち込むやり方で、だいたい初詣あたりで出てくるのはこの類の甘酒ではないだろうか。これは某夜気も良くやった。鍋を焦がした焦した。
もう一つのやりかたは、炊いた米に麹を入れてほったらかすやり方である。これはやったことがなかったので昨日やってみた。
新酒ができるのは冬で、この時期に大量に出る酒粕の利用法として粕漬けや粕汁や甘酒という利用法が出てくるのは自然なことだと思う。冷蔵庫なんて無いわけだし。
でも、甘酒と言うのは辞書によれば夏の季語である。夏には甘酒売りが江戸市中を行商してまわったのだとか。夏まで酒粕がもつわけがない。
麹を使うやり方は、これはもう味噌とか醤油と同じように発酵食品と言うことになる。ヨーグルトと同じである。
一定温度に保った粥に麹を混ぜてほったらかしているうちに、麹菌が出す酵素によって、でんぷんが分解して、グルコースが出てくる。料理とか調理とか言ったものは、消化の外部化とも言い換えられる。ご飯を炊くと言うことはその典型である。唾液がやっているような消化を既にやってくれている。
少し温度が高すぎたかと気になっていたけど、どうやら、えらい甘いおかゆになった。世一行と言えば成功なのだろうけど、麹と言うのはカビであるらしい。カマンベールと言い、ゴルゴンゾーラと言い、カビはうまいのだろう。ペニシリンだってカビから見つかったわけだし。
一応、レシピ。
米(本当はもち米がいいらしいけど、普通の米)1合でおかゆを炊く。
こうじをふやかす。
おかゆが60度前後まで覚めたらこうじをぶちこむ。
炊飯器のふたをちょっと開けて温度計入れて温度が高くなりすぎないようにしてほったらかす。
十時間くらいしたらうまくしたら出来上がってる。うまくしなかったら知らない。
2010年3月24日水曜日
4月3日土曜日に集会をやりたいのでお誘いとお知らせさせて下さい。
お元気ですか?花粉症にやられてませんか?
再来週土曜日に集会を開きたいのと、少しインターネットを使って何かしたいので、そのお誘いをお知らせをさせて下さい。
もう二週間きってしまいましたが、4月3日土曜日に和光大学学内のどこか(たぶんコンパ室)で、一人三文字
以上本文三万字以内で何かしら書いてきて酒でも飲みながら読み合い語り合う会を、花見でもしつつ花粉症にやられつつやりたいなと考えています。
私事ですけど、現状、何か集まると言う機会はあまりありません。勝手に一般化するけどみんな同じようなものではないでしょうか?
やっていること、考えていること、お勉強してい
ること、悩んでいること、みんな色々とあるかと思います。そういうのを書いて、持ち寄り、他人の意見感想など聴きつつ、誰かのものを読んで、聞くというのは面白いんじゃないかな?と思います。
とりあえず会としてお願いすることは日本語による文字媒体であること以外の文章にまつわる制約を極力なくしたいので、参加者の
皆さんが書いてくる文章はエッセイでめノベルでもポエムでもレポートでもルポルタージュでも論文でも発表練習でも近況報告でも愚痴でもラブレターでも・・・エトセトラなんでもアリです。書けなければ書けないで書ける時に書けばよいのです。
自分はこういう具合で自分の文章を発表したいというやり方があればそのやり方で
やってもらいたいですけど、とりあえず、流れとしては、自己紹介+近況報告して、発表者が書いてきたものを口頭で補足しながら読んで、質疑応答というような形にしたいです。
そこから何か新しいものが見つかるといいな!
2007年9月以来、十回位はやってきているのですけど、対面しなくても何かあれば情宣やら悶問題提起
ができるよう、今回からはメーリングリストというのもつくってみたいんですね。もし、よかったら参加してもらえたら楽しくなるかなとも思うのですが、仕方がないから入ってやるかと思ってくださる方ありましたら某夜気に言いつけていただけるとうれしいです。
http://groups.google.co.jp/group/monmon44
それとインターネ
ットを使って集会の日付決定と出欠の効率化を図りたいと思っていまして、ぐるすけ(http://g-schedule.com/
)というのを使っていきたいと考えています。これはネット上で何か集会・宴会の出席の確認ができるものですけど、どういう状況になっているかメンバーならだれでも見ることができるものです。
こちらにも登録しても
良いと思っていただけるのでしたら、お前、やっておけという旨、伝えていただけるとありがたいです。
今回も、できたら色々な方に参会、ご意見などしてもらいたいと思い、メールをさせてもらいましたが、いいかげん迷惑なのだと思われてしまいましたら、できたらお手数かけてしまいますけど、教えていただければ幸いです。
できるだけ主催の方で一括して原稿を印刷したいので、できれば当日昼位までには原稿をデータとして頂ければうれしいです。あと、ちょっとカンパなど募るかもしれません。話題・原稿だけでなく、酒肴何か持ち寄っていただけると会が豪勢になります。
そういうわけでよろしくお願いします。
2010年2月13日土曜日
自分の語法・語り口・論法・見方・視点etcについて
たとえば、関係をつくっていくというのは、物語に関係するものを編みこんでいく、編みこまれている作業である。その関係の一つ一つには始まりと終わりがあるわけだけど、未だ物語の途上である現時点では終わりは知らない。知りようがない。だから問題にはならない。なるとしたら始まりのお話であるわけだけど、二人の当事者がそれぞれに矛盾しあう初対面の記憶を持ちながら関係して行くことがあり得る。というか、ある。たとえば到津ららさんと某夜気は初対面と記憶している時点も場面も全然違っている。そのことを掘り返してみることで物語を見直してく助けにならないか、というようなことを次回悶問では書こうと思っている。たぶん、変更するけど。今まで最初の構想通りになったことがない。
最近思うのは三点。
第一は知らぬ存ぜぬものは山ほどあってそういう無数の関係から自発的なのか非自発的なのかはともかく選択して情況を作っていたりもするのだろうけど、そういう中でどっか遠くで起こった赤の他人の事件をネタにみんなで盛り上がったりするのは、加害者や被害者に対して果たして不誠実であるのだろうか。不誠実から逃れるにはどうすれば良いのだろう。知ることによって、と訴える連中は多い。某夜気もそういう手段を使ったこともある。でも、どれくらい知ったら知ったことになるのだろう。そんな水準どっかに存在するのだろうか。真に赤の他人が赤の他人に対して誠実な態度とは語らないこと、知らないこと、無関心であることしかないんじゃないだろうか。げ。
第二は何か悪いことをした人間がいて誰が閻魔大王になれるのだろうか。宮城の方で出会い系業者が捕まったけど、人は言うだろうか。そんな仕事をしていて恥ずかしくないのか、と。誰がそんなことを他人に対して臆面もなく言えるというのだろう。たとえば某夜気が捕まったとして誰が俺を裁くと言うのだろう。恥も尊厳も忘れていないとやれない極致が裁判なんじゃないだろうか。多かれ少なかれそういうものは到る処にあるんじゃないか。恥知らずなところはやっぱり必要なことだと思う。げげ。
第三は物語は書かれ、読まれ、語られ、聴かれ、表現され、観られるわけだけど、それをどのように語るかと言う枠組みと見る枠組みは人によって違う。自分だけの物語は意味を為さないので、言葉なり何なり既存の方法論を借用しなければならない。その習得はその環境情況によって全然異なる。そういう中で語法・語り口・論法・見方・視点を攻撃することはそんなに有効なことなんだろうか。確かに運動家はそういう手法をずっと使ってきたけど、有効だけど、でも、いいかげん飽き飽きしていないだろうか。その方法そのものに対しての攻撃はそのまま使ったものにも適用されるんじゃないか。お前が悪い、お前が悪い、お前が悪いと言い続けて折れなかった方が勝ちと言うのはどうなんだろう。お前は良い、素敵だ、美しいというのならいいのかもしれないけど。
2010年2月2日火曜日
雪がない
天下無敵最強無比むふふへはのマイシューズはびくりともしなかったけど。
アサダマオちゃんには負けるけど。
あんな刀はいて氷滑るなんてムリんちょです。
鶴川から電車に載って半時間ちょいで新宿につくわけですが、ビックリ!雪がない。昨日は確にちょっと層をつくった雪がないのですよ。普段と変わらない新宿があるのです。
雪というのはこの辺りでは非日常だけど、そんなものがなかったかのようになっている街と、そこに費やされたエネルギーを考えるとえらいことだと思うのですよ。
でも、今朝はいつも辺りに意味のない一人事をわめき散らしている浮浪オッサンがいなかったなあ。寒いから移動したのだろうか。よくわからないなあ。
雪景色
白い荒れ地を切り裂いて
冬の機関車は走るのです
君の街はもうすぐなのです
雪の銀河をぼくはまっしぐら…」とたしかはっぴぃえんどは歌っているのです(「抱きしめたい」)。
山登りに使う靴が威力を発揮しました。昨日はいた靴は冷水が染み込んで寒くてたまらなかったのですが今朝の靴はビクともしない。
すばらしい。
しかし、気分はロマンティックでもなんでもないのです。ドキドキするとかマンモスうれぴ〜とかウキウキとかそういうのとはまるで縁遠いのです。大風吹けば止まり、大雨ふれば優止まり、雪降ればもちろん止まる御殿場線と違って優秀な小田急線はいつもとまるで変わらないのです。
冬の機関車は君の街に行くけど、これから某夜気が行くのはいったい誰の街なんでしょうか。
2010年2月1日月曜日
2010年1月27日水曜日
婚活の日
それにしても、某夜気の感覚としては恥でしかないような内容なんだな。曰く当方女房と離縁したため、貧富を論ぜず、17歳〜25歳の嫁さんを求む、とのこと。
成果の程も知らないし、そもそも広告主がいかなる人物なのかも知らないが、こんなもん出した日には末代までの笑いものになるんじゃないか。家族の抵抗はさぞ激しかったのだろうと推測してしまう。
ただ、広告主が笑いものにならず、むしろ家族も勧めてのかかる新聞広告であるとすれば、やっぱり、某夜気には理解しかねる世界があるように思える。かつ広告から縁結ばれたとしたら…ディープな世界がそこにはあって、その後裔にやっぱり婚活があり、多少はそのお零れも与かって今日の某夜気があるとすれば、風吹けば桶屋
がもうかるではないけれど、なんだかなあ〜と思えてくる。
2010年1月11日月曜日
成人式報道
ミでは言われ、叫ばれ、喧伝されてきたことではあるが、やはり、今年も逮捕者が出た旨の報道が伝えられている。
もう終わってしまったお父さんのためのワイドショー講座を除いて、ワイドショーは一人だと絶対に見ないけど、今晩辺りホシノ監督あたりが満面に笑みたたえて、テレミを見ているお父さんたちのうっぷんを晴らすべく、期待されてるステロタイプを再生産するに違いない。某夜気がヤマセマミのにわかファンクラブであるように
、ホシノ監督は、なんといってもお父さんたちにとっては、きっと英雄だから。
大人気がないと言うけれども、大人の関係というのは出会い系用語では、いつでもヤリ捨てできる極めて都合の良い関係ということを指し、大人だろ、というのは俺様の言うことが聞けないのか、このヤローというのとほぼ同義である。たぶん。この限りではもう生善説ってあるんだなあと思えてくる。
今年は二十歳というのは平成生まれということである。日本で何箇所成人式をやり、何人がそこに出たのかは知らないけど、荒れないわけがないじゃないか。そんだけたくさんいたら何十人か何百人かそんくらいは調子こくに決まっているのである。だってお祭りだもん。狭い狭いと言っても十分広いこの日本で、何百万人もいる新
成人で、この誰も調子こかなかったら、北朝鮮のマスゲームも真っ青だし、ファシズムのイメージそのまんま!
某夜気にとって絶望的な気分にさせられ続けたのは荒れる成人式ではなくて、そんなことにいちいち深刻に目くじら立てなければならないかのように見せつけられる報道そのものだったし、同じワイドショー見てたら景気だの雇用だののニュースは途絶えることはたぶんないと思うけど、その矢面にある連中への敵視であり、また、
青少年やら若者やらをいかに消費していくかにかける情熱であり、こういうものがこれからも飽きもせずに繰り返されることそのことである。
左義長
静岡県東部の某夜気の地元ではどんど焼きと言っていたが、同じものを静岡市の方ではさいと焼きというらしい。さいと焼きのさいとはサイコロのさいだと聞いたことがあるが本当かどうかは知らない。ただ、どうもわからないのは、どんど焼きと言っていたのは二本松の浅間神社界隈だけで、富岡とか深良とか麦塚あたりにそうい
う呼び方があるのかどうかというとこれはもうわからない。同じ市内でもその辺りは違う町のように思っていたし。その辺りの人間とはまるで交流がなかったから…あ、でもバアさんは麦塚生まれだ。
ただ、考えてみると、どんど焼きというのが某夜気の地元ではこんなに早い時期にやっていたかと考えてみると、どうもそんなわけではないように思える。というのは小学校では書き初めが冬休みの宿題になっており、学校がはじまって先生に出すわけだけど、たしかにそれを教室の後ろの壁に張り付けていたような気がする。そう
するとせっかく張り付けたわけだし、感覚的には結構な期間はりだしていたと思うけど、それをはがして持って帰ってどんど焼きに放り込むわけで学校が始まってすぐのこの時期にやるというのはいささかせわしないような気がする。だからたぶん一週間くらい後に地元ではどんど焼きをやるんだろう。足し算的には。
まあ、時期はいくらも変わるもので、某夜気の地元はお盆は七月半ばだし、お社のない神社である吉田神社のお祭りがある。吉田神社はよくわからない。京都の吉田神社は学問の神様であるのだけど、裾野の吉田神社は何の神様なんだろうか。お社も鳥居もないけどお札はある。実家の台所に貼ってあるけど、なんだかよくわからん
なあ。
いつか(来週行くけど…げっそり)相方の実家に行った時書き初めなのか半紙に墨で字したためたものが貼ってあったけど、書き初め以外になんか書くほど、ここは熱心なのかと思ったし、なるほど字はうまいけれど、どんど焼きがある小学生時代を過ごした某夜気にとってはえらいことだと思えたけど、もしかしたら、そうではなくて、
ただ単にどんど焼きがないからもさないだけだったのではなかったかとも考えられる。いや、マジでうまいけど。妹さんの字だけど。
どんど焼きがないということは、そういうところで育つと、忌まわしい宿題の産物である書き初めを燃やす快感や、長い竹にさしてアルミはくでくるみ火にかかげて焼いたこぶし大の団子にきなこをつけて食う味も知らない、ということになる。
今、二本松の浅間神社でどんど焼きをやっているのかどうかは知らないけど、十年くらいまえから岡上でどんど焼きをやるということはそういうことなんだなあ、と思った。たぶん今まで一度も岡上どんど焼きには行ったことないけど。焼け跡は見てたけど。
うちのお飾りはよろしく焼かれただろうか。
2010年1月10日日曜日
2010年1月9日土曜日
2010年1月7日木曜日
夕霧忌
夕霧というのは女の人の名前です。しかも、源氏物語に出てくる女の人の名前ではなくて、大阪だか今日だかの遊郭の20かそこらで死んだ遊女さんだったらしいです。
よっぽど綺麗な人だったらしく、なんか脚本化されて人形劇になったりしたとか。
それで季語になるなんてな〜。
でも、たぶん、夕霧忌の一月七日というのは旧暦になるんじゃないかな?そうすると一月か二月か先の話だなあ。
古人は教養として短歌をたしなみ、また、普段の事柄を俳句に詠みこんだけど、某夜気もそれにならって今朝のことを三首作ってみよう。
きれ字はよくわからないので使わないけど。
おこたにて
浅き夢見し
夕霧忌
白い息
映える晴れ空
夕霧忌
夕霧忌
下痢腹抱え
急ぎ足
われながらお粗末というか、お下劣だなあ。
女殺油地獄見たい。
2010年1月6日水曜日
良寛忌
散る桜残る桜も散る桜、とか、良寛に辞世あるかと人問わばナムアミダブツナムアミダブツナムアミダブツというと答へよ、とかいう句が有名である。むしらそれしか知らないけど。
お酒をよくたしなむ人であったらしい。それに尼さんに恋していたらしい。新潟(シンランさんが京から放り出されて本格的に活動した土地であり、結婚して子供つくったところであり、浄土真宗が多い土地)の人だし、俺が死ぬときにはナムアミダブツと言うと言っとけなんて言うくらいだからてっきり良寛も浄土真宗なのかと思
っていたら曹頭宗なのね。念仏じゃなくて座禅か〜。じゃあナムアミダブツなんて言わないんじゃないかな?
ずいぶん前、良寛の弟の句を収めた伝記がブックオフで百円で出てたけど、買っておけば良かったかなあ。
2010年1月3日日曜日
2010年1月2日土曜日
2010年1月1日金曜日
旨
言に旨と書いて詣となる。詣でると書いてもうでると読む。意味はどっか神社に行って拝んでくる、ということか。
言うという字はこととも読む。小言とか言葉とかいうけれども、日本には言霊信仰がある。サザンオールスターズだって愛の言霊と歌っているけど、歌詞は割合聞き取りやすいと思う。
ことほぐ、と読んで寿ぐとか言祝ぐと書くが、ことほぐのは偉い人とか専門的な技能集団の仕事だった。玉音放送なんてのはそういう意味ではズバ抜けてえらい録音だったのである。
〜長と肩書きのつく人の誰も聞かない〜辞というのもことほぎであり、某夜気がとにかく苦手なスピーチというのもことほぎである…場合がある。
そうすると旨いというのは技能的な産物に対する言葉なんじゃないか。詣でるのも技能である。よくわからないけど、浮かれた気持ちで初詣に行くというのはそれ事態が作法的な因習のようなものである。そういうものでも楽しんでいくのがいいんだろうなあ。
二月六日(土)悶問のお知らせとお誘い
さて、2010年になっていきなりになるのですが、二月六日(土)に新年会も兼ねつつ、三文字以上三万字以内で何か書いて読みあう会をしたいと思い、お誘いとお知らせをさせてもらいます。
まあ、近況だけでもまずは聞かせてもらえたら、というのが第一にあるのですが、書ける人は最近、感じたこと、思ったこと、考えたこと、活動報告、その他、書きたいこと、他人に読んで聞かせてみたいこと、とりあえず聞くだけ聞かせてみたいこと、書きかけの論文エトセトラ題材は何でもOK、極端な話、シリメツレツ、稚拙
なることこの上なくても構わないから、エッセイでもシヂメでも論文でもポエムでもノベルでもラブレターでも形式は自由で、本文三文字以上三万字以内の日本語の文章を書いて持ってきて、それを肴に酒でも飲みつつ話しでもしていきたいです。
これまで何度かやってきて色んな立場から文句が吹き出していますし、反省点はありますが、個人的にはまずはどんなものでも書くこと、読むこと、聞くこと、話すことが大事なことで、そういうのを共有していくのは大事だと思うのです。
論理的でないからと言ってつぶすべきではないし、また、わからないからと言ってそれそのものをつぶすべきではないのです。ただ、自分が持っている文章の背景は相手は持っていないということを前提にした方がいいと思うのです。そんなに気難しくなく気楽にやれたら一番なのです。
そういうわけで、参加していただける方いましたら当日二時くらいから、場所は和光大学コンパ室か拙宅にてやりませう。二百円か三百円くらいの現金はお持ちください。持ちよりあるとうれしいです。文章持ちよってもらえる人いたら、今関に原稿もらえればこちらで印刷します。早めにください。メールに添付して送ってもらえ
たらもっとうれしい。あと、大方の人数把握したいので、顔さ出してやるべと思う人あれば連絡もらえたらうれしいです。
そういうわけで、よろしくお願いします。