2010年2月13日土曜日

自分の語法・語り口・論法・見方・視点etcについて

 自分の語法・語り口・論法・見方・視点etcについてどれだけのことを語りえるのだろうか。人間と言うのは物語を生きているということができるだろうけど、その物語は自ずから「そのように」語られ、「そのように」見られるものである。「そのように」というのは自分の生きる物語そのものである。「そのように」生きてしまったものはいまさら仕方がないんじゃないだろうか。これからもやはり「そのように」生きていくしかないのではないだろうか。
 たとえば、関係をつくっていくというのは、物語に関係するものを編みこんでいく、編みこまれている作業である。その関係の一つ一つには始まりと終わりがあるわけだけど、未だ物語の途上である現時点では終わりは知らない。知りようがない。だから問題にはならない。なるとしたら始まりのお話であるわけだけど、二人の当事者がそれぞれに矛盾しあう初対面の記憶を持ちながら関係して行くことがあり得る。というか、ある。たとえば到津ららさんと某夜気は初対面と記憶している時点も場面も全然違っている。そのことを掘り返してみることで物語を見直してく助けにならないか、というようなことを次回悶問では書こうと思っている。たぶん、変更するけど。今まで最初の構想通りになったことがない。
 最近思うのは三点。
 第一は知らぬ存ぜぬものは山ほどあってそういう無数の関係から自発的なのか非自発的なのかはともかく選択して情況を作っていたりもするのだろうけど、そういう中でどっか遠くで起こった赤の他人の事件をネタにみんなで盛り上がったりするのは、加害者や被害者に対して果たして不誠実であるのだろうか。不誠実から逃れるにはどうすれば良いのだろう。知ることによって、と訴える連中は多い。某夜気もそういう手段を使ったこともある。でも、どれくらい知ったら知ったことになるのだろう。そんな水準どっかに存在するのだろうか。真に赤の他人が赤の他人に対して誠実な態度とは語らないこと、知らないこと、無関心であることしかないんじゃないだろうか。げ。
 第二は何か悪いことをした人間がいて誰が閻魔大王になれるのだろうか。宮城の方で出会い系業者が捕まったけど、人は言うだろうか。そんな仕事をしていて恥ずかしくないのか、と。誰がそんなことを他人に対して臆面もなく言えるというのだろう。たとえば某夜気が捕まったとして誰が俺を裁くと言うのだろう。恥も尊厳も忘れていないとやれない極致が裁判なんじゃないだろうか。多かれ少なかれそういうものは到る処にあるんじゃないか。恥知らずなところはやっぱり必要なことだと思う。げげ。
 第三は物語は書かれ、読まれ、語られ、聴かれ、表現され、観られるわけだけど、それをどのように語るかと言う枠組みと見る枠組みは人によって違う。自分だけの物語は意味を為さないので、言葉なり何なり既存の方法論を借用しなければならない。その習得はその環境情況によって全然異なる。そういう中で語法・語り口・論法・見方・視点を攻撃することはそんなに有効なことなんだろうか。確かに運動家はそういう手法をずっと使ってきたけど、有効だけど、でも、いいかげん飽き飽きしていないだろうか。その方法そのものに対しての攻撃はそのまま使ったものにも適用されるんじゃないか。お前が悪い、お前が悪い、お前が悪いと言い続けて折れなかった方が勝ちと言うのはどうなんだろう。お前は良い、素敵だ、美しいというのならいいのかもしれないけど。

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