2009年12月31日木曜日

大晦日

 かつて大晦日というのはどこかお祭りのようなものだった。
 寝子的なところも多分にあるのだけど、今では考えられないことではあるが、平常夜九時で寝てしまう(土曜は例外で夜十時まで起きていた…日立不思議発見は八年近く毎週ほとんど欠かさずに見ていたので)某夜気が大晦日だけはオールナイト起きていても文句は言われない、そういう非日常感があった。
 紅白歌合戦は見る気にならなかったが(歌は嫌いだった。抵抗を感じずに聞けるようになったのは最近のことである。学校でやるような合唱は今も大嫌い…)野球拳なんてやっていると、平和だなあと思いながら見たし、マイナーな外国映画がやっているのも見ていた。国営放送が廃業する造船工場や四万十川の淡々としたドキュメ
ンタリーを流していた。そういうのを見ながら大晦日を感じていた。
 今年はどこが当番なのか知らないが、何年かの割合で浅間神社の持ち回りがまわってくるのだけど、夜中の二時や三時に二本松の浅間神社に行くと初詣がやっていて、甘酒や汁粉がふるまわれる。どこが当番でも幼稚園くらいから知ってるオジはんオバはんが大抵いて甘酒をくれるものだから初詣の甘酒や汁粉がテキ屋さんによって
販売されるというのはむしろ、へ〜…と思ったりもした。甘酒や汁粉はこれ大好物だから、もう非日常である。
 上京してからはよく柿生の琴平神社に初詣に出掛けたが、夜中に神社をまわるというのは地元にいる時からやっていて近所の神社は大抵まわった。
 高校の時には三島大社に足を伸ばして帰路二人組に総額五十円だか百五十円だかを強奪された。財布も何年か使っているゴミくずだらけの巾着だったからやるだけ赤字。こっちもなけなしの銭ぶんどられたけど、たぶんガス代にもならなかっただろう。
 今は某夜気には暮れも正月もありはしないが、初詣どこ行こう。新宿の花園神社にでも行こうかな…お水の神さんらしいし。明日にでも行こうかな…ちなみに昨年は大阪の野崎観音でした。

野球拳

 今くらいは紅白がやってるのだろうけど、たぶん、十年以上前、クリキントンが大統領だった時、民放で野球拳がやっていて、円周率(こう書くとイヤらしいでしょ)がポロポロしていた。某夜気はそれを年越しソバを食べながら見ていたような記憶がある。誰か男が見た目パンツ一丁になっていてもその下に何枚も着込んでいてジ
ャンケンに負ける度に脱いで脱いで、最後はしぶい顔になるのが印象に残っている。
 91年に宮沢りえがサンタフェ(これとイエローズというのがたぶん写真集としてある。曰く、イエローズを見るためにマックを買ったという人もいたらしい)を出してヘアヌード解禁を決定的にするわけだけど(ヘア解禁という言葉は小学校低学年だった某夜気も覚えてる。流行らなかった?)、野球拳というのはさすがにそこまで
は出してなかったけど(たぶん)、でも、円周率はやたらとポロンポロンしていたなあ。あれ、良かったんだろうか。
 やっぱり90年くらいに太陽がヌード特集をしているのだけど(これは某夜気ライブラリにあります)、やっぱり、時代はあるんだと思う。
 ハンス・ペーター・ドゥル(だっけ?)の「恥じらいと裸体の文化」(だよな…)によれば、文化が裸体をどう扱っているかということはその文化の本質的なとこにかかってくる。ヌーディストは、裸の修道女などと形容されるが、さて、野球拳にはどんな文化があり、また、今は野球拳のようなものは見られなくなったテレミの文
化はいかなるものかというのはいくらでも時間があればテーマにはなるかもしれない。

2009年12月27日日曜日

ジャルゴン

 タイトル、怪獣の名前みたいでしょ?
 そうです。ジャルゴンとは怪獣なのです。
 ゴジラが東京から大阪、と順ぐりに日本列島主要都市で暴れまわったように、ジャルゴンは議論の場においてしばしば暴れまわるものなのです。
 時には南の島か北の氷の中で密かに暮らしているジャルゴンも一度都会に出てきたら大暴れすることも希ではないのです。
 なぜならジャルゴンは他の非専門用語との軋轢によって顕在するものなのですから。
 ゴジラ一匹でも大変なのにアンギラスが出てきて、キングコングまで繰り出してきたらもうどうにもならないのです。なんでか知らないけど、怪獣同士は相争うのです。
 防衛隊でもGフォースでも国連軍でも自衛隊でも戦略自衛隊でも何でもいいからジャルゴン退治に乗り出すところがあったとします。
 さて、怪獣映画を見てみましょうか。怪獣退治に乗り出した軍が怪獣退治に成功した事例ってそんなに多くないのではないでしょうか。むしろ怪獣を迎撃している軍隊の流れ弾その他によって被害が拡大していくという場面は怪獣を退治した場面よりも多いのではないでしょうか。
 仮にジャルゴン退治に誰かが乗り出したとしても、同じことが起こることも多分ありますよね。誰がゴモラとレッドキングの暴れるところに立ち入れるというのでしょうか。兵隊さん以外の誰が砲火行き交う戦場をウロチョロしたいというのでしょうか。鬼退治に行ったはずの桃太郎が鬼になって帰ってくるというのは最悪の事態な
のではないでしょうか。
 でも、ジャルゴンの立場からすると楽しいんですよね。存分に力を振るうことはとても楽しいことです。そして、ジャルゴンには誰もがいつでもどこでもなれるわけです。きっとジャルゴンの破壊力をうまく使えたら、あるいは世の中もう少しうまくいくかもしれないのですが、それはジャルゴンの性質的に難しいような気がするの
です。

2009年12月26日土曜日

年賀状

 だいたい書きました。二人合わせて今のところだいたい百枚。来年は増えるかもしれません。たぶん増えますね。今後毎年けっこうな出費になるかも。
 例外もあるけど、あらかた落書き入りです。スペースが字面だけでは埋まらないのです。某夜気の場合、最初の方に書いたのは割と気合い入れて書いているけど、後の方になるにつれ、簡略化していく傾向にありますね。
 それにしても、年賀状一枚一枚書いているとけっこう露骨に相手に対する好感度とかイメージとか出てきますね。ボールペンの滑りの違う。
 来年には住所変わっていたりするのは当たり前田のクラッカーにしても、旧姓に馴染んでいると、宛て先見てもわかんないですね。あと、カップルには連名で送っているけど、経費節減というだけではないですからね。

2009年12月24日木曜日

イトコのこと

 バー様とカーちゃんとシーからイトコが来日するということを聞いた。
 たぶん受取り手の某夜気の方の問題でもあるけど、みんな微妙にニュアンスが違うように感じた。
 まあ、よくわからんけどイトコはシーと三月末まで住むらしい。
 近くだなあ。

2009年12月22日火曜日

グーグルブロガーとFC2ブログの相性が悪い

 グーグルブロガーからFC2ブログにリンクをはってそこからとんでみると向こうのソースコードが表示されるみたい。
 ハテナダイアリーへだと割りとうまくいくから、たぶん会社同士の仲が悪いのかもしらない。
 グーグルもFC2もアメリカの会社だから張り合っているんだろうか。

2009年12月20日日曜日

三日酔いで思うこと

 昨日、一昨日とお酒を飲んだ。名目は今の時期、世間の居酒屋を賑わせている忘年会というものである。ただし、お店は使わず、拙宅にて宴会を催した。
 一昨日の酒は特に過ぎることなかったようで、特に翌日は残ることもなかったが、昨日の酒はいささか痛飲をしてしまった。
 そのお陰で今日は電車では吐気はするわ(吐かなかったけど)、仕事ではまるで頭が回らず、今も腹が痛いが、そういうのも食事をし、水を飲み、顔を洗うことで、段違いに改善していくのがわかった。
 その過程で思ったことについて三点のみ簡単に書き留ていきたい。
 第一に、どうも、某夜気はビールが弱いのではないかという疑惑がある。痛飲する時にはそういえばビールをいつも飲んでいる。焼酎ばかり飲んでいるせいか、ペースを誤認してしまうのかもしれない。水のように感じるが、ビールとて低くないアルコールの入っているレッキとした酒だということが頭から消えてしまうのかもしれ
ない。これからビールを飲む折りには特に気を付けていかないとならない。
 第二に、飲んでいる時には無論、意識はあるわけだけど、一部記憶がスッポリ抜けてしまっているということについて。どうも、飲んでいて、かつ、記憶が抜けているところでも、某夜気はその他の時と同じ自己を保持しているように振る舞っているようなのだ。酒乱の気を出して暴れる時もあれば、おとなしく飲んで終わるという
こともあるようだ。しかし、後から振り返ると、やはり、よくわからない。自分ではどうにも思い出せない。たとえば、お酒を飲み出すと、あらかじめ記憶を待避してもう一人の人格が現れるとしても、それがわからない。わからないというのは実に恐ろしいことだ。
 第三には三日酔いから回復する過程での気分についての発見である。三日酔いは当初は肩から背から腰から見えない圧力をかけ、つばを出させ、かつ、それを飲み込むことは容易ならず、胃袋の中身をぶちまけさせようとし、まぶたを固く閉ざさせ、油断していると眠りの帳にあっという間に引きずりこむ。しかし、これが晴れてい
く時には不思議なことに爽快としか言えないような解放感がある。文字通り身と気持ちが軽くなるような気がしてくるのである。こういう感覚は、以前から事ある度にあったのかもしれないが、今日ほどに強く意識したことはなかった。そして、今感じている軽さは飲む前のそれよりもたぶんもっとずっと軽い。こういうことも今日は
じめて意識したことかもしれない。
 いずれにせよ、酒のタガを外さないように対策をしないとならないわけで、そのことを考えると頭が痛くなる。
 一言でいえば飲まなければいいじゃないかということになるが、最終手段だなあ。

2009年12月8日火曜日

1941年

のこの日から1945年の八月まで日本はアメリカと戦争していたわけで、満州あたりから数えると15年くらい戦争をやっていたわけで、よくもまあ、そんな国力が当時の日本にはあったもんだと思う。
 というよりかはやっぱり完全な侵略戦争とか、完全な自守自衛戦争とか、そう簡単には言いきらないだろうけど、あっちで火事を起こしたらこっちでも火事を起こして挙げ句の果てには丸焼けになってしまったというのは歴史の必然があったようにも思える。歴史の必然とかいう言葉は嫌いだけど。
 たぶん戦争というのは既に遠い昔、今は昔、竹取りの翁というものありける頃のお話になってきたので、いよいよ誰も戦争を主体として体験したこととして語ることはなくなり、客観として物語を読むという時代がくるし、もう、きつつある。
 だから、そのうち、真珠湾に臨む山本長官の胸中や長篠の戦いに挑む武田方諸将の如くと語られるかもしれない。山本五十六は戦中に軍神になったし、武田方諸将はたぶん愚痴る前に悉く討ち死にしただろうから死人に口なし。まあ、言いたい放題なんだなあ。
 歴史の必然というのは、たぶん嘘っぱちなんだろうけど、嘘っぱち以外に歴史を語ることはできないんだなあ。体験は語れるだろうけど。
 それにしても、68年前、今の日本がこうなっているなんて誰も考えもしなかっただろうなあ。こうはなりたくないっていうビジョンのいくらかはもしかしたら体現しているのかもしれない。

12月9日山行きについて

一応、明後日(明日?)に迫りました山行について連絡させてもらいます。
青梅線で7時10分に御嶽駅につく電車があります。鶴川〜990円で5時くらい、水道橋から5時14分、八王子は6時何分から出るのがあります。朝がんばるぞー。
そこから7時30分発の西東京バスに乗ります。運賃270円で10分くらいでケーブル下というバス停に
つきます。そっからケーブルカーが出ているんですが、これはいよいよとなったら使いましょう。標高差は400Mくらい。たぶん一時間くらいで山頂につくんじゃないかな?17時50分くらいに最終が出るからその時には真っ暗になっているはずです。
一応もくろみとしては、御岳山と神社(929)に行って奥の院に行って、鍋割り山(1
084)を経由して、分岐点があるんですが、時間と体力に余裕があれば大岳山にも足を伸ばしたい。分岐から往復で3時間くらいかな?その辺で正午くらいになっているんじゃないかな?で、分岐に戻って、滝が何筋があるんですが、沢沿いを歩く道を通るわけです。この沢沿いは岩が多くてクライマーさんのメッカらしいです。で、御
岳山に一回戻るんですが、そこからたぶん尾根伝いに日の出を経由して、日の出山を下って二時間で温泉に着くかなって感じ?たぶん、17時とかいい時間になって、もう暗くなっているんですが、ここで「つるつる温泉」というお風呂に入ってバスで武蔵五日市までバスで行って帰ります。370円かな?最終は20時10分です。たぶん、文
章じゃわからないだろうから、当日地図を見せることになるかと思いますけど。


日の出町商工会 つるつる温泉 190-0181 東京都西多摩郡日の出町大字大久野4718番地 TEL 042-597-1126(イイフロ)

朝10時〜夜8時まで (受付は夜7時まで)


大人 (3時間) 800円 平日の18時以降は700円(土・日・祝日除く)

超過料金
一時間毎に200円(大人のみ)

【泉 質】 アルカリ性単純温泉 (アルカリ濃度 PH9.9) 無色澄明無味無臭
【効 能】 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進
【禁 忌 症】
急性疾患(特に熱のある場合)、活動性結
核、悪性腫瘍、重い心臓病、呼吸不全、腎不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般に病勢進行中の者、妊娠中(特に初期と末期)

 じきに冬至なので日がくれるのが早いです。各人、手もちの照明はお持ちください。
 冬なので、雨降られると死ねます。雨具は持ってきてね。靴と風呂の支度は抜かりなく。酒も適量に。
 面子としては我輩と相方と山本さんと小泉先輩の四人になります。
 当日、今関が起きたらメールします。天気予報と空模様みて決行か否か決めます。連絡なければアイツら寝てやがると思ってください。
 そういうわけで。

2009年12月7日月曜日

2009年12月2日 奥多摩・川苔山 山行

奥多摩行き青梅線車中で眠りに落ちる相方。



 去る12月2日に奥多摩山系でも人気高しと音に聞く川苔山に登ってきました。メンツは某夜気と相方とY氏の三名。本当は11月25日に予定していたけど、天候不順のため1週間順延し、降水確率10%雲ひとつない快晴の中、欠航となりました。
 午前3時に起きて弁当をつくった相方は車中爆睡。でも、諸般の事情があって、一本電車に乗り遅れたんですよね~。
 奥多摩駅に8時半に到着、ルート変更も考えたんですが、タクシーを使って、当初の登山口まで向かいました。タクシー代1500円。一人頭五百円。

駅前風景


駅前風景
 
駅前風景


9時くらいから舗装された林道を歩いて行くのです。途中、三~四台の森林組合の車に追い抜かれて行きました。

川苔橋バス停付近道祖神

川苔橋バス停付近道祖神

川苔橋バス停付近道祖神

道端に落ちていた軍手です。

誰かがつけたロープ

その下は断崖絶壁。誰かがクライミングしたのだろうか。
 横には上智の学生の慰霊碑。

道端の道祖神

道端の道祖神

休憩した竜王橋

竜王橋





橋の上の草

 森林組合の人たちが草刈りをしていました。
 我々が通りかかると「人でーす」と言って注意を歓呼していました
 「車でーす」じゃなくて「人でーす」…

林道から先はずっとこんな道が続きます。

 水が冷たくておいしかったです。

 途中、ハンマーやらバールやら槌やらをもったおっちゃんたちが登山道を整備していました。
 登山道にはロープがあったり、鉄の橋があったり、いたるところに木造の橋があったりするのですが、そういうのもおっちゃんたちが作っているんですね。
 ありがたいことです。

百尋の滝

さすがに百尋はないけど、大きいですね。

 そこから先は山道。延々と山道。

ちょっと開けていますね



頂上着14時

頂上からの眺望

かすかに富士山が見えます

山頂を出発したのは15時、山頂付近ですごい軽装の…というよりも装備なんてまるでない男性3人組と出会いました。大丈夫だったんだろうか。
 最短ルートで下山しても、途中で日が暮れ、真っ暗な中、パーティーに一個のライトで何とか外科医についたのが17時半。ほとんど休憩もせず、途中は走ったのに…
 ヘンゼルとグレーテルが白い石を落して夜目印にした気持ちがよくわかりました。

下山して束の間の休憩。お店のおばちゃんの行為に甘えさせてもらいました。

 15時50分発鳩ノ巣発列車に乗り、河辺駅で降りて、駅ビル内のスパ・コンプレックスへ。
 21時までゆったりとして、リンガーハットで一杯食べて、引き上げてきました。

2009年12月6日日曜日

電話で水俣話

 先週くらいになると思うけど、たぶん半年くらいご無沙汰しているS木旦那から電話があった。
 ということは半年くらい某夜気はミナマタのミの字も言わなかったのかもしれない。
 最初、誰の声かと思いながら話を合わせていた。T司くんにしたら声が太いし、T波さんにしては声に迫力がある。H野さんの声かと思ったら天の魚とか言いはじめる。天の魚の話をH野さんがするわけがない。電話の声では人の区別がついていないのかも知らない。
 S木旦那の話を要約すると、要するに天の魚の話で、今度、四国に巡礼でなくて公演に行くらしい。よく知らないけど、天の魚はえらいことになっているんだなあ。お芝居っのはえらいものなんだなあ。四国はちと遠いかなあ。で、来年二月、「水俣なんたらかんたらネットワーク」がやる写真展で人が必要とのこと。
 それにしてもT嶋さんのオバ様かあ…懐かしい名前だなあ。ご馳走になったカレーはおいしかったし、頭のいい人だし、熱い人だけど、う〜ん…あの人とやった議論で某夜気が述べたことはほとんどそのまんま某夜気卒論の結論になったけど、それは要するに何故か割と評判の良かった部分なのだけど��、そういう意味では恩人なの
かも知れないけど…嫌いじゃないけど、う〜ん。
 T嶋さんとは03年夏に水俣の相思社(この字で良かったかなあ)に何晩か酒呑んだ仲で、先輩にあたるはず。某夜気はT波さんとはついに一緒には水俣には行っていないということになる。その年にはS木旦那は水俣には行かず、M本さんがいた。M本さんがS木旦那と仲悪いということは方々から聞いて知っていたが、S木旦那
と実際に会ったのは05年の秋から06年の春くらいのことである。
 今年の五月に十七連勤とか言って泣きそうになったのもS首さんの鶴の一声に端を発するわけだけど、今度はそうはならないようにしよう。役立たず、というのは変わらないにせよ。

2009年12月5日土曜日

えなりくん

 えなりくんが彼女と別れたらしい。
 景気問題やら普天間問題やらと同列に扱われているのだから天下国家の重大な関心事であるらしい。今も昔も男女のすったもんだは人の心をひくものだ。
 さて、えなりくんの彼女さんは若くて美しくて才能あるフルート奏者であるらしい。
 でも、ニュースではそのフルート奏者がえなりくんと破局した、とは書かれていなかった。えなりくんがフルート奏者と破局した、という内容になっていた。やっぱり芸能キャリアでは若くしてえなりくんは圧倒的なものがあるからさすがにネームバリューが違うのだろう。
 若くて美しくて才能のあるフルート奏者にとって、えなりくんしか知らなかった某夜気のような連中からえなりくんの元・彼女としてしか認識されないという事態は、たぶん、えなりくんと別れたことそれ事態よりも重大なダメージになるのかもしれない。ならないかもしれない。

国立

 ここ一年か二年くらい行ってないような気がするけど、主に国立にあるライブハウスに学生時代足しげく(五時間くらい歩いたりして)通い、ご縁のなせる裏業でほとんどタダでそういう文化にひたっていた時期があった。
 寮生活一年目Iさんと二年目Kさんと三年目Tさんの同居人がバンドをやっていて、IさんやKさんにタダ券もらって主に下北のライブハウスにもよく行ったけど、中央線と小田急線の違いではなくて世代とジャンルの違いなのだろうけど、えらい違うもんだなあと思った。
 ああ、Iさんとは今、某夜気と同じ生業だということをこないだ知った。まだバンドもやっているらしい。Kさんが今、何をやっているのか知らない。今もIさんやYさんとバンドやっているのか聞き損ねた。Tさんのバンドは学内でやっているのは何度か見たけど、ライブハウスに行ってみるということはなかった。どうしている
のだらうか。
 さて、知り合い…というか、非常にお世話になった人達のバンドが今度の26日に国立でやるというメールが妹からきた。30年だか40年だか知らないけど、ベースが変わったくらいであとは同じ面子で同じ曲をやるというのはやはりえらいことだと思う。さういうわけで国立には親父と妹が行くらしい。
 某夜気が上京してから久しく、実家では誰かしら欠けていて、一家が集まることはあまりなく、水俣展か国立で一家揃うというようなことになっていた。というか、妹と顔合わせるなんてレアもレアで下手すると年単位でツラ見なかったり。まあ。見たいとは思っていなかったけど。
 そのうち行こうね〜って言いはじめてから一年か二年かくらいたっちゃったような気がするけど、まあ、そのうち行くべえか。

2009年12月4日金曜日

「閒」がマイPHSで出ない!

 「閒」というのはPHS規格に入っていないのだ。

 絵文字も似たようなもので、送っている人間と送られる人間の見ている文面が違っているというのは当たり前のことと考えなければならないのだろう。

2009年11月30日月曜日

内田百閒『ノラや』(筑摩書房、2003)

 内田百閒の「閒」の字を、久しく筆者は「聞」と思っていた。そうすると「うちだひゃっぶん」とでも読んでいそうなものだったが、まさしく、その通り、「うちだひゃくぶん」と読んでいました。だって最初に内田百閒の名前を読んだ時、ルビがふってなかったんだもの。
 これまで内田百閒の書いたものは読んだことがなかったから相方の本棚にあった『ノラや』を出してきて読んだ。
 まあ、中身は内田百閒が猫について書いた随筆を集めたもので、そのほとんどを「ノラと「クル」という二匹の猫についての記述が占めている。それも、「ノラ」がいた頃の幸福な時間についてではなく「ノラ」があるときどことなく行ってしまってそれから帰ってこなくなってからの、それからの近隣・新聞・編集者などを総動員した捜索劇と喪失感について、あるいは「ノラ」と入れ違いで住みついた「クル」の死に際についての記述が圧倒的に多い。
 著者自身が書いている通り、構成など他人任せで、後から自分で読むことも心苦しい心情が表れているのか、同じ文章が軟化にもわたってリフレインしている。
 戦後の、高度経済成長前の東京のまだ牧歌的な風景の中に、今で言うペットロス症候群があったということの記録としてもあるのかもしれない。内田百閒の煩悩ぶりと無能ぶりから、おかしさと悲惨さがこみあげてくれる。

2009年11月28日土曜日

読書感想文:三島由紀夫『金閣寺』

 三島由紀夫の『金閣寺』は、この小説中のどこの章を抜粋してみても、いくらかの注釈は加えられるにせよ、学校の国語の教科書にもそのまま載っていそうな文章の固まりである。三島由紀夫については、正直、どうなのかと思うところもいくらかはあるが、やはり、すごい文章を書く人であると筆者は思う。この度、数年ぶりに思い立って『金閣寺』を読了し、改めてそのことを確認した。


物語は、終始、事を成し遂げた青年の回想によって綴られている。その「私」の世界のなんと閉鎖的なことだろう。単純に挙げていけば三つの要因が考えられる。

第一にはそこには「私」が「どもり」であるという自他ともに誰もが認めている事実と「自分が理解されないということが矜り」になっていたという事情の他にも「私」の生い立ちが深く関わっている。「私」は寺の子に生まれついた。一時は中学にも通い、他の世界を垣間見るチャンスもあったのだろうが、「私」自身の張り巡らした世界との障壁がそれを見事にはねつけた。戦前の中学は今とは違って義務教育ではなかったから、田舎の坊主である親とは言え、その力の大きさが伺い知れるというものだ。その父親の親友であった金閣寺の住職の元で育てられ、仏教系の大学に行かされているのだから、ほとんど純粋培養と言ってもよい世界が「私」の全てだったのだ。

第二には「私」自身は物語の最後半まで遂げることもなく、また、思っていたほどのものもないことを確認するのみだったが、「私」にとっての父親的存在である金閣寺の住職がどっぷりとはまりこんでいる女性との葛藤である。最後半の風俗デビューを除いて、物語中に語られているだけでも二度、その他にも何度かあったことが示唆されている女性関係はいずれも「そのとき、金閣寺が現れた」ことで未遂となり、相手の女の冷め切った軽蔑のまなざしをもって終わっている。わかりにくいかもしれないが、一時は女の肉体の持つ美に「私」は魅せられるが、そのとき、美を独占する金閣寺が圧倒的な存在感をもって想起され、そのために女の美は跡形もなく吹き飛ばされてしまうのである。そのせいばかりでもないが、「私」の女性に対する意識は相当ネガティブだ。小説中ではそれほどのウェイトを占めているとは思えない母への憎悪と、少年時代に体験した有為子との淡い思いと憎しみと、彼女の裏切り劇と死とによってそれは決定づけられている。

第三には金閣寺の住職の計らいによって大学に進学した「私」が出会った柏木という、禅宗系のお寺の息子である、奇形の青年との出会いである。柏木は「私」にとっては金閣寺と女の仲立ちとをする決定的なきっかけである。柏木は相当な難物であり、コンプレックスを裏返した強烈な自我をもって「私」に対応する。「私」はその影響を思いっきり受けて、その後のことを決定していくのである。

長くなったが、まとめると、要約文ができあがる。お寺の息子であり、将来はそうなることを当然のこととして受け止めていた「私」が、「どもり」であることとその将来性をもって内的な孤独を深めていき、自らに望みをかけるだけの母と、自らを拒絶するだけだった有為子に対して絶望する。孤独な「私」を支配していたのは幼い頃には父親から聞かされた頃から形成された幻想の象徴的な金閣寺であり、父の死後には住まいでもあった現実の象徴である金閣寺であった。大学に入って、ついに「私」は現実の女に拒絶されることに飽きたらず、現実とその象徴でもある金閣寺とその住職に拒絶されようと懸命になり、理想の金閣寺を永遠のものとするために金閣寺を焼き払い、ようやく、生きようと思うのである。

さて、小文では先に決定という言葉を筆者は何度か使ってきたが、劇中、「私」が決定したところがあるのかというと、どうにも疑わしいような気もしてくる。「私」が決定したのは最後半、自殺用に準備した睡眠薬と小刀を投げ捨てるくらいのことではないか。蛇足ではあるが、現実には金閣寺の放火犯は睡眠薬を飲んで切腹しているのである。「私」は作中何度も「美について」と「悪は可能か」という命題を述べているが、前者は既に決定されていて、それを全面的に認めているし、後者の方は、語り方の問題でもあるが、全ては決定されていたような印象をどうにも否めない。もちろん、筆者には先に述べたようにこのような文章を「私」が書こうとはどうにも思われない。「私」というのは無論、著者である三島由紀夫の分身でもあるだろう。リアルさという点では描写として欠けている面があるように思う。まるで客観的視点が欠けている。しかし、誰がリアルさを求めるというのだろう。ここに誰が客観性を求めているというのだろう。一冊の小説として読んでみて、歴史的・客観的事実がどうであれ、これはこれとして完結した世界を構成している。

以上、さすがに筆者としても我ながらくどくどしく感じられてきたので、結論というか、もう感想のみを述べよう。

告白というのは小説としては珍しくない文体だし、実際にあった事件に取材して脚色をするのは昔からあった手法である。そもそも期待すべくもないが、『金閣寺』には少しの実験的要素をも見いだすことは困難である。これでもかというくらいにゴリゴリの正統的な美文で統一されている。

題材としては、僧侶による金閣寺の放火という当時としてはショッキングな事件を取り扱ってはいるが、率直に言えば、『金閣寺』の中身には今日の我々としてはそれほどの新鮮味を感じることが出来ない。

それというのは、もちろん、『金閣寺』が世に出されてから既に幾十年が経っていると言うこともあるだろうが、もはや、こんな中身のことは飽き足りてしまったのかもしれない。あるいは孤独に絶望し、あるいは人間関係に絶望し、あるいは世界に絶望し、さしたる理由もないのに殺人を犯す人間の報道にもう飽食してしまっている。実際はともかくとしてイメージとするならそういう凶悪犯は、孤独を飼い肥らせているように我々の想像力を働かせる。しかし、そういう孤独を飼い肥らせている人間は今のこのご時世どれだけの数がいるというのだろう。中島敦の『山月記』の虎はそうして狂疾して虎となったが、まさか、虎にもなりきることもできず、さりとて『金閣寺』のように偉大なる父のような金閣寺があるわけでもなく、狂える無力な孤独はどこにいくというのだろうか。それはあるいは我らが同時代人にあっては全く珍しいことではないのかも知れないのに。著者である三島由紀夫の晩年の心境は、どうなっていたのだろう。

そのことを考える時、その狂える無力な孤独は骨肉ある存在として思い起こすことができるような気がしてくるのである。その語りの可能性の深さも、あるいは覗き見ることができるかもしれない。

2009年11月25日水曜日

2009年11月24日火曜日

天丼ひとつ

 たぶん司馬遼太郎の街道が行くで見たか聞いたかしたことだと思うけど、こんな話があった。
 日本海海戦の際、連合艦隊はバルチック艦隊が二通りの進路をとることは予想できても、どちらをとるかまでは直前までわからず、最悪の場合には敵をおっかけていかないといけないということで、無補給で行けるよう甲板の上まで石炭を積んでいたとか。
 この石炭はイギリス産の高級品で、海軍は、結局、連合艦隊最後の艦隊決戦となる戦闘にむけて大奮発をした。
 さて、いざ、敵艦みゆとなったら甲板の上にまで積み上げられ、大砲の邪魔になった石炭を海に捨てないといけなくなった。
 日頃から一抱え天丼一つとその値段の高さを吹き込まれていた兵隊の中には、「天丼一つ、天丼一つ」と言いながら石炭を海に投げこむ者もいたという。
 どうも、「天丼一つ、天丼一つ」というのが強烈に印象に残っている。やはり食いものにからむと記憶の仕方が違うらしい。
 でも、もしかしたら上の話も記憶が違えているのかもしれない。

相方が若返る

 久しぶりに我が家の風呂に入る。風呂桶に湯を張るのはいつぶりだろうか。

 相方が風呂からあがって入念にマッサージをしている。さっきは二歳若返った~と言い、今度は4歳若返ったと満足げ。

 ごろんと横になっている。

 3歳や5歳や7歳の2歳とか4歳は大きいけど、もう気分の問題なんだな。

 気分は大事だけど。

とろくさいにっき

 2009年7月30日から2009年11月24日まで http://torokusainikki.asablo.jp/blog (閉鎖済み)で本ブログと同名の徒録歳日記と題するブログを開設していたが、いかんせん使いにくいので、こちらに引越すことにした。
 もともとは構想中の本家サイト『寓多良庵』の準備としてつくったものだったが、本家の方がなかなかつくれないので、とりあえずブログのみ更新して行く。

 ブログと言うのは、まことに奇妙な形態の“メディア”である。こういうものが20世紀最後半から発生して今世紀初頭の日本国で隆盛を極めているというのは、一種、この国の国民性というものが垣間見えるような気もする。
 そこに我々も加わろうとする、その心持はそんなに気負ったものではなく、まあ、のんびりとやっていこう。なにせ、とろくさい日記なのだから。