2009年11月28日土曜日

読書感想文:三島由紀夫『金閣寺』

 三島由紀夫の『金閣寺』は、この小説中のどこの章を抜粋してみても、いくらかの注釈は加えられるにせよ、学校の国語の教科書にもそのまま載っていそうな文章の固まりである。三島由紀夫については、正直、どうなのかと思うところもいくらかはあるが、やはり、すごい文章を書く人であると筆者は思う。この度、数年ぶりに思い立って『金閣寺』を読了し、改めてそのことを確認した。


物語は、終始、事を成し遂げた青年の回想によって綴られている。その「私」の世界のなんと閉鎖的なことだろう。単純に挙げていけば三つの要因が考えられる。

第一にはそこには「私」が「どもり」であるという自他ともに誰もが認めている事実と「自分が理解されないということが矜り」になっていたという事情の他にも「私」の生い立ちが深く関わっている。「私」は寺の子に生まれついた。一時は中学にも通い、他の世界を垣間見るチャンスもあったのだろうが、「私」自身の張り巡らした世界との障壁がそれを見事にはねつけた。戦前の中学は今とは違って義務教育ではなかったから、田舎の坊主である親とは言え、その力の大きさが伺い知れるというものだ。その父親の親友であった金閣寺の住職の元で育てられ、仏教系の大学に行かされているのだから、ほとんど純粋培養と言ってもよい世界が「私」の全てだったのだ。

第二には「私」自身は物語の最後半まで遂げることもなく、また、思っていたほどのものもないことを確認するのみだったが、「私」にとっての父親的存在である金閣寺の住職がどっぷりとはまりこんでいる女性との葛藤である。最後半の風俗デビューを除いて、物語中に語られているだけでも二度、その他にも何度かあったことが示唆されている女性関係はいずれも「そのとき、金閣寺が現れた」ことで未遂となり、相手の女の冷め切った軽蔑のまなざしをもって終わっている。わかりにくいかもしれないが、一時は女の肉体の持つ美に「私」は魅せられるが、そのとき、美を独占する金閣寺が圧倒的な存在感をもって想起され、そのために女の美は跡形もなく吹き飛ばされてしまうのである。そのせいばかりでもないが、「私」の女性に対する意識は相当ネガティブだ。小説中ではそれほどのウェイトを占めているとは思えない母への憎悪と、少年時代に体験した有為子との淡い思いと憎しみと、彼女の裏切り劇と死とによってそれは決定づけられている。

第三には金閣寺の住職の計らいによって大学に進学した「私」が出会った柏木という、禅宗系のお寺の息子である、奇形の青年との出会いである。柏木は「私」にとっては金閣寺と女の仲立ちとをする決定的なきっかけである。柏木は相当な難物であり、コンプレックスを裏返した強烈な自我をもって「私」に対応する。「私」はその影響を思いっきり受けて、その後のことを決定していくのである。

長くなったが、まとめると、要約文ができあがる。お寺の息子であり、将来はそうなることを当然のこととして受け止めていた「私」が、「どもり」であることとその将来性をもって内的な孤独を深めていき、自らに望みをかけるだけの母と、自らを拒絶するだけだった有為子に対して絶望する。孤独な「私」を支配していたのは幼い頃には父親から聞かされた頃から形成された幻想の象徴的な金閣寺であり、父の死後には住まいでもあった現実の象徴である金閣寺であった。大学に入って、ついに「私」は現実の女に拒絶されることに飽きたらず、現実とその象徴でもある金閣寺とその住職に拒絶されようと懸命になり、理想の金閣寺を永遠のものとするために金閣寺を焼き払い、ようやく、生きようと思うのである。

さて、小文では先に決定という言葉を筆者は何度か使ってきたが、劇中、「私」が決定したところがあるのかというと、どうにも疑わしいような気もしてくる。「私」が決定したのは最後半、自殺用に準備した睡眠薬と小刀を投げ捨てるくらいのことではないか。蛇足ではあるが、現実には金閣寺の放火犯は睡眠薬を飲んで切腹しているのである。「私」は作中何度も「美について」と「悪は可能か」という命題を述べているが、前者は既に決定されていて、それを全面的に認めているし、後者の方は、語り方の問題でもあるが、全ては決定されていたような印象をどうにも否めない。もちろん、筆者には先に述べたようにこのような文章を「私」が書こうとはどうにも思われない。「私」というのは無論、著者である三島由紀夫の分身でもあるだろう。リアルさという点では描写として欠けている面があるように思う。まるで客観的視点が欠けている。しかし、誰がリアルさを求めるというのだろう。ここに誰が客観性を求めているというのだろう。一冊の小説として読んでみて、歴史的・客観的事実がどうであれ、これはこれとして完結した世界を構成している。

以上、さすがに筆者としても我ながらくどくどしく感じられてきたので、結論というか、もう感想のみを述べよう。

告白というのは小説としては珍しくない文体だし、実際にあった事件に取材して脚色をするのは昔からあった手法である。そもそも期待すべくもないが、『金閣寺』には少しの実験的要素をも見いだすことは困難である。これでもかというくらいにゴリゴリの正統的な美文で統一されている。

題材としては、僧侶による金閣寺の放火という当時としてはショッキングな事件を取り扱ってはいるが、率直に言えば、『金閣寺』の中身には今日の我々としてはそれほどの新鮮味を感じることが出来ない。

それというのは、もちろん、『金閣寺』が世に出されてから既に幾十年が経っていると言うこともあるだろうが、もはや、こんな中身のことは飽き足りてしまったのかもしれない。あるいは孤独に絶望し、あるいは人間関係に絶望し、あるいは世界に絶望し、さしたる理由もないのに殺人を犯す人間の報道にもう飽食してしまっている。実際はともかくとしてイメージとするならそういう凶悪犯は、孤独を飼い肥らせているように我々の想像力を働かせる。しかし、そういう孤独を飼い肥らせている人間は今のこのご時世どれだけの数がいるというのだろう。中島敦の『山月記』の虎はそうして狂疾して虎となったが、まさか、虎にもなりきることもできず、さりとて『金閣寺』のように偉大なる父のような金閣寺があるわけでもなく、狂える無力な孤独はどこにいくというのだろうか。それはあるいは我らが同時代人にあっては全く珍しいことではないのかも知れないのに。著者である三島由紀夫の晩年の心境は、どうなっていたのだろう。

そのことを考える時、その狂える無力な孤独は骨肉ある存在として思い起こすことができるような気がしてくるのである。その語りの可能性の深さも、あるいは覗き見ることができるかもしれない。

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